彩雲(さいうん)です。
いつも私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
前回は第10代崇神天皇のお話でした。
まだお読みでない方はリンクを貼っておきますので、ぜひお読みになってくださいね。
今回は第11代垂仁(すいにん)天皇のお話からです。
それでは始めましょう!!
第11代垂仁天皇と后サホビメ
イクメイリビコイサチこと垂仁(すいにん)天皇は、何人か妻がいたが、最初の妻サホビメを后(きさき)として大切にしていました。
ある日、サボビメのところへ兄のサホビコがやってきて「夫と兄とどちらが愛しいか?」と尋ねました。
サボミメは兄に面と向かって言われたので、「兄!」と答えました。
すると兄サホビコは「本当に私を愛おしく思うのであれば、二人で天下を治めよう!」と言い、鋭利な紐付きの小刀を渡し、天皇が寝ているところを刺し殺しなさいと告げたのです。
サホビメは断ることができず、垂仁天皇がサホビメのひざまくらで昼寝をしていた時、小刀を懐(ふところ)から出し、振り上げました。
しかし、3度も振り上げ首を刺そうとしましたが、悲しい心を抑えきれず刺すことができませんでした。
そして思わず涙があふれ夫の顔を濡らしました。
垂仁天皇は驚いて目を覚まし、泣いている事情を聞きました。
サホビメは全部今までの事を打ち明け、サホビコの謀反(むほん)を知ったのでした。
垂仁天皇はすぐにサホビコを討伐(とうばつ)する軍を集めました。
その時、兄サホビコは稲城(いなき)を作って戦いの準備をしていました。
【稲城(いなき)】とは稲を積んで作った城のことです。
垂仁天皇が軍を集めているのを見ていたサホビメは、こっそり宮殿を抜け出し、兄の稲城の中へと入って行きました。
しかしこの時サホビメは、垂仁天皇の子を身籠もっていたのでした。
稲城の中にサホビメがいる事を知った垂仁天皇は、攻めることができず困り果てていました。
その後あっという間に何ヶ月が経ち、サホビメは御子を産み、宮殿で育てて欲しいと使者を遣わして伝えました。
垂仁天皇は、力の強い者を子供の引き取りに用意し、どんなことでも母子共に連れて帰ってくるよう命じました。
その事を察知していたサホビメは、髪を剃りカツラをかぶり、玉飾りを腐らせて三重に手に巻き、また酒で衣服を腐らせて見た目は普通の服にして御子を抱いて出てきました。
迎えにきた兵は、御子を受け取ると、サホビメの髪をつかむとカツラがとれ、あわてて腕をつかむと玉飾りの糸が切れ、服をつかむとボロボロとやぶれてしまいました。
こうしてサホビメを連れ戻すことができなかったのです。
垂仁天皇は、あきらめきれず、御子の名前やどのように育てるか、次の后(きさき)はどうするか?時間稼ぎのため質問しました。
こうして質問することも無くなると、あきらめて泣く泣く稲城に火を放ちサホビコを殺害、サホビメは自害しました。
もの言わぬ御子 ホムチワケ
サホビコの稲城で生まれたサホビコの御子は、ホムチワケと名づけられました。
そして、垂仁天皇はホムチワケを大切に育て、立派に成長しましたが、いつになっても物を言うことができませんでした。
ところがある日、空高く飛んでいく白鳥の声を聞いて、口をパクパクと動かして何か言いたそうでした。
それを見ていた垂仁天皇は、白鳥の捕獲を家臣に命じ、大和から新潟まで追っかけて生け捕りにして持ち帰ってきました。
しかしホムチワケにその白鳥を見せましたが、言葉を発することはありませんでした。
ある日、垂仁天皇が悩んで寝ていると夢で神のお告げを受けました。
「我が宮を整えて、大きく宮殿のように造り修めれば御子は話せるようになるだろう」
目覚めた天皇は、太占(ふとまに)で占った結果、出雲のオオクニヌシの祟りだと分かりました。
【太占(ふとまに)】とは鹿の肩の骨を焼いてヒビ割れ具合で判断する古代の占いであります。
早速ホムチワケにお供を付けて、出雲の神殿に向かわせました。
参拝後、ホムチワケは突然話せるようになりました。
お供は大いに喜び、垂仁天皇に報告するため、早馬で先に大和へ帰って行きました。
1人になったホムチワケは、出雲のヒナガヒメと一夜を共にしました。
しかし、ヒナガヒメをそっと覗くとなんとヘビであったので、ホムチワケは驚いて慌てて逃げ出しました。
するとヒナガヒメは怒って舟に乗り込み追いかけてきましたが、ホムチワケは山を登り逃げて行きました。
出雲から早馬で大和に帰ったお供の者は、垂仁天皇にホムチワケが話せるようになったことを報告され、大いに喜びました。
そしてお供の者に出雲に返して、神の宮を造らせました。
垂仁天皇の再婚
愛するサホビメの遺言通り、垂仁天皇はミチノウシの4姉妹、ヒバスヒメ、オトヒメ、ウタコリヒメ、マトノヒメを妻に迎えることにしました。
しかし、下2人の妹ウタコリヒメとマトノヒメはとても醜かったので、生まれ故郷にお返しになりました。
マトノヒメは「姿が醜いからと返されたと近所で噂になるのは、とても恥ずかいことでしょう!」と言って山代国の相楽=京都府相楽郡に着くと、木の枝に首を吊って死のうとしましたが、死にきれませんでした。
しかし、弟国(おとくに)=京都府乙訓(おとくに)郡に着いた時、ついに深い淵に落ちて死んでしまいました。
姉妹が同じ男性に嫁ぐ姉妹婚は、当時は珍しいことではなかったのですが、醜いから返されるお話は以前にもありましたね。
そうニニギが山の神オオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメに一目惚れをした時、姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせましたが、醜いので返してしまいました。
お忘れの方はリンクを貼っておきますので、ご覧くださいね。
常世国の不老不死の木の実
垂仁天皇は永遠の命をお求めになり、朝廷に仕えていたタジマモリを常世の国(とこよのくに)に行って【トキジクノカクの木の実】を求めて旅に出ることになりました。
【常世の国】とは、海の彼方にある不老不死の国であり、かつてオオクニヌシの国造りを手伝ったスクナビコナが突然去ってしまったところです。
【トキジクノカクの木の実】とは1年中とれる香りの良い木の実で、食べると不老不死になると言われています。
しかしタジマモリは長い時間をかけてやっと常世の国を見つけ出し、木の実を見つけ帰ってくると、すでに垂仁天皇は亡くなっていました。
タジマモリは木の実の半分を后(きさき)のヒバスヒメに献上し、残りの半分を垂仁天皇の御陵にささげ、泣き叫びその場で亡くなってしまいました。
この木の実は橘(たちばな)であり、柑橘類の実であります。
ま と め
いかがでしょうか?
今回は第11代垂仁天皇のお話でした。
垂仁天皇は永遠の命をお求めになり、朝廷に仕えていたタジマモリが不老不死の木の実をとりに行きますが、帰ってきた時にはすでに垂仁天皇が亡くなっていて間に合いませんでした。
垂仁天皇は153歳で崩御(ほうぎょ)したそうです。
寿命があるようになったのは、ニニギがコノハナサクヤヒメと一緒に姉のイワナガヒメも嫁いてきたところ、醜いからと返してしまったからと言われています。
垂仁天皇も4姉妹一緒に嫁いできましたが、下2人はやはり醜いので返してしまいました。
同じことをしているので、間に合わなかったのでしょうか?
垂仁天皇の皇女倭姫(ヤマトヒメ)は、垂仁天皇25年に第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)から天照大御神のご神体の奉仕をバトンタッチし、さらに良い鎮座地を求めて諸国を巡り、最終地の伊勢でアマテラスのご神託(しんたく)を受けて伊勢の神宮が創建されたというお話があります。
こちらは鎌倉時代に編纂されたと言われる【大和姫命世紀】(ヤマトヒメノミコトセイキ)に詳しく書いてあります。
古事記には出てこないので今回はここまでにしますが、この内容はとても重要ですので、後日記事に書きたいと思います。
古事記では次回のお話に出てくるヤマトタケルの叔母として登場します。
次回は第12代景行(けいこう)天皇のお話からです。
お楽しみに!!
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