【古事記】をわかりやすく楽しく読もう!【第10代崇神天皇】#12

三輪山(写真ACより)

彩雲(さいうん)です。
私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
前回は初代天皇、イワレビコ(後の神武天皇)の即位、正妻探し、皇位継承争いまでのお話でした。

まだお読みでない方は、リンクを貼っておきますのでご覧ください。

【初代天皇即位と嫁探し】 #11

今回は第10代崇神(すじん)天皇のお話からです。
それでは始めましょう

第10代 崇神天皇

第9代開花(かいか)天皇崩御後、第3皇子のミマキイリビコイニエが即位しました。
ミマキイリビコイニエは後に崇神(すじん)天皇と呼ばれるようになりますので、今後は崇神天皇と呼ばせていただきます。

崇神天皇が即位してから、国内に恐ろしい疫病がはやり、町には死体であふれていました。
このままでは国民がいなくなってしまうと悲しみ、神床(かむどこ)に入ることにしました。

【神床】とは、夢で真意を得るために特別に清めた寝床のこと

神床に入るようになって何日目かの夜更けにオオモノヌシが現れ、「オオタタネコに私をまつらせなさい。そうすれば、神のたたりの疫病は収まるであろう!」と言いました。

早速、崇神天皇は四方八方に早馬を送ってオオタタネコを探させました。
すると河内美努村(みののむら)=現在の大阪府八尾市で見つかり、崇神天皇はすぐに呼び寄せ、「あたなは誰の子か?」とたずねました。

三輪山(写真ACより)

するとオオタタネコはオオモノヌシの5代孫と聞いて、崇神天皇は大いに喜び「天下は治まり、人びとは栄えるであろう!」と言い、オオタタネコを神主として三輪山の神であるオオモノヌシをまつらせました。

このオオモノヌシをまつった神社が大神(おおみわ)神社として残っています。

【大神神社(おおみわじんじゃ)】
奈良県桜井市三輪山麓に鎮座する。
ご祭神は大物主大神(おおものぬしおおかみ)
三輪山全体がご神体(しんたい)であり、拝殿があるだけで、社殿はありません。

こうして疫病は治まり、国は安泰となりました。

オオモノヌシとイクタマヨリビメ

イクタマヨリビメはとても美しい娘で、両親は夜に男に娘が寝取られないように、娘の部屋に厳重に鍵をかけていました。

しかし、ある夜遅く、イクタマヨリビメの元に容姿がよく威厳がある立派な男が訪れてきました。
二人はすぐに惹かれ合い、結ばれて毎晩一緒に過ごしていると、娘は身籠りました。

両親は娘が妊娠したことをあやしみ、「夫もいないのになぜ妊娠したのか?」と尋ねると、「毎晩どこからともなくやってくる、名も知らない麗しい男と一緒に過ごしている間に自然と妊娠しました」と答えました。

娘の両親は、男の素性を知ろうと思い、「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通して、その針を男の衣の裾に刺しなさい」と教えました。

娘がその通りにすると、翌朝、針に付けた麻糸は戸の小さな鍵穴を通って外に抜け、その糸をたどっていくと三輪山の神社にたどり着いたので、イクタマヨリビメは神の子を身籠ったことが分かりました。

また、残った糸巻きには3巻の糸が残っていたことから、この地を三輪と呼ぶようになりました。

こうして生まれた子の孫の子がオオタタネコだったのです。

崇神天皇 八咫鏡(やたのかがみ)を皇居外におまつりする

イラストACより

アマテラスオオミカミの分身の八咫鏡(やたのかがみ)は、歴代天皇の側でおまつりされていましたが、崇神天皇は、その神の勢いを恐れ、お側で共にすることは穏やかでないと抱かれました。
そこで崇神天皇は皇居外におまつりすることを決意し、皇女トヨスキイリヒメに託し、大和の笠縫村(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて八咫鏡をおまつりしました。

【神籬(ひもろぎ)】とは神さまを迎え入れるため、清浄な場所に榊(さかき)を立てて周囲を囲い、神の宿る場所としたものです。

タケハヤスビコの反逆

木津川(写真ACより)

疫病が鎮まり、崇神天皇は各地に軍を派遣しました。
叔父のオオビコは北陸道を平定するため出発しましたが、途中で少女が不思議な歌を歌っていました。
オオビコは少女に歌の意味を聞くと、ただ歌っていただけと言い、たちまち姿を消してしまいました。

胸騒ぎをしたオオビコは、大和に引き返して崇神天皇に報告すると、すぐにオオビコの腹違いの兄タケハヤスビコが邪心を起こしたと悟り、オオビコをタケハヤスビコがいる山代(やましろ)=現在の京都府木津川市に派遣しました。

山代に着くと、やはりタケハヤスビコが軍を率いていて、両軍は木津川を挟んで戦いに挑みました。

タケハヤスビコはすぐに矢を受けて死んでしまい、タケハヤスビコ軍は逃げ出しましたが、オオビコ軍は追い詰め次々と切り殺され、鵜(う)のように死体が河に浮きました。
そこでこの川を鵜河(うかわ)と言います。

その後、オオビコ軍は最初の目的である北陸道の国々を平定し、北上していきました。
やがて、東海道に派遣されていた息子と出会い、その地を会津(あいづ)と呼ばれるようになりました。現在の福島です。

こうして大和に抵抗するものを平定し、民の生活は豊かになりました。

そこで民から弓矢で打った鳥や獣の食べ物や布を貢ぎ物として差し出させました。これが徴税のはじまりです。

そのかわりに水不足を解消する灌漑工事(かんがいこうじ)を行い、ため池を作りました。

このように国を豊かにした崇神天皇のことを【初国(はつくに)知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)】とたたえました。

御真木天皇とは神武天皇の元のお名前【ミマキイリビコイニエ】からきています。

ま と め

いかがでしょうか?

今回はミマキイリビコニエこと第10代崇神天皇のお話でした。

疫病から民を守り、各地を平定し、民が獲った鳥や獣、布を徴収し、ため池を作りました。これが徴税のはじまりでしたね。

次回は第11代垂仁(すいにん)天皇のお話です。
お楽しみに•••

 

 

 

 

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