【古事記】をわかりやすく楽しく読もう!【第21代雄略天皇 後編】#21

彩雲(さいうん)です。
私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。

前回は、オオハツセワカタケルこと第21代雄略天皇即位前までのお話でした。

まだお読みでない方は、リンクを貼っておきますので、ぜひお読みになってからこちらの記事をご覧ください。

【第21代雄略天皇 前編】#20

今回は雄略天皇即位後のお話になります。
それでは始めましょう!!

雄略天皇の政略結婚

イラストACより

オオハツセワカタケルこと第21代雄略天皇は、朝倉宮(あさくらのみや)で天下を治めました。

朝倉宮は奈良県桜井市脇本(わきもと)にある脇本遺跡とする説が有力です。

天皇即位後は、仁徳天皇の御子で雄略天皇の叔父オオクサカの妹であるワカクサカベを皇后にする事にしました。

ワカクサカベは元々兄の安康天皇が雄略天皇の嫁にしようと考えていた娘でした。

叔父オオクサカと言えば、前回のお話に出てきましたが、安康天皇に殺害されてしまいました。

お忘れの方はリンクを貼っておきますね。

【第21代雄略天皇 前編】#20

そこで天皇は日下(くさか)=大阪府日下町辺りに住んでいるワカクサカベを迎えに行くことになりました。

そして、近道をして山の上に登って国内を見渡すと、千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)を上げ立派に飾り立てている家がありました。

出雲大社撮影

【千木(千木)】とは、神社本殿の屋根にV字やX字などの飾りのこと

【鰹木(かつおぎ)】とは、神社本殿の屋根にある丸太のようなもののこと

天皇はその家を供(とも)の者に尋ねさせると、志機(しき)の大県主(おおがたぬし)=大阪府柏原市辺りの豪族である事が分かりました。

天皇はお怒りになり「奴(やっこ)め、自分の家を天皇の御殿のように作るとは何事か!」と仰せになり、すぐにその家を焼かせようとしました。

すると、その家主の大県主(おおがたぬし)が現れ、平伏して「私は愚かでした。愚かであるゆえに誤ってこの家を作ってしまいました。大変恐れ多い事です。お詫びとして品物を献上します」と申し上げて、布を白い犬に掛け、鈴を付けて、自分の親族である腰佩(こしはき)と言う名の者に犬の綱を持たせて献上しました。

そこで、天皇はその家に火を付けるのをやめさせました。

そして、その足でワカクサベの家に行き、犬を求婚の品とし皇后としました。

忘れられた赤猪子(あかいこ)

イラストACより

ある時、天皇が美和河(みわがわ)=三輪山付近の初瀬川下流付近で、川辺で衣を洗う童女(おとめ)に出会いました。

童女はとても容姿が美しかったので、天皇が誰の子かと尋ねると、「引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えました。

童女はまだ幼かったので、天皇は使いの者に「あなたは男に嫁がず、大きくなったら妻にする事にする」と伝えさせ、宮に帰りました。

赤猪子(あかいこ)は天皇に言われた通り、嫁に行かず待っていてもお呼びがかからず、80年が過ぎてしまいました。

そして、赤猪子(あかいこ)は思いました。
「天皇の命令を待っていたら多くの月日が経ち、姿は痩せてしぼんでしまい、もう頼れる人もいない。しかし、天皇をお待ちしていた気持ちをお伝えしなければ、気持ちが晴れない」と決心して数多くの引き出物を人に持たせて宮中に参り献上しました。

イラストACより

しかし、天皇はその時の事をすっかり忘れて赤猪子(あかいこ)に尋ねました。

「お前はどこの老女だ。どうして参ったのだ?」

そこで赤猪子(あかいこ)は申し上げました。

「ある年のある月に、天皇のお言葉を頂き、その命令通り待っているうちにすでに今日に至るまで80年が経ってしまいました。容姿もすっかり老いて、もはや頼れる人もいません。しかし、せめて自分の気持ちだけは伝えたく参りました」

天皇はその言葉を聞き大変驚きました。
そして「私はすっかり忘れていた!それでもあなたは私の命令を待ち、無駄に盛りの年を過ごさせてしまった。とても気の毒な事をした」と答え、内心妻にしようとも考えましたが、非常に老いた姿をはばかり、天皇が自らの老いのせいで結婚が出来ないという歌を贈り、数多くの品物を持たせて家まで送らせました。

葛城山で一言主大神と出会う

ある日、雄略天皇は葛城山(かずらきのやま)=奈良県と大阪府の堺にある山に登りました。

すると大猪(おおいのしし)が現れ、天皇は音が出る矢である鳴鏑(なりかぶら)でその大猪を射ると、大猪は怒ってうなりながら向かって来ました。

天皇は慌てて木に登って難を逃れ、歌を残しました。

またある日、再び天皇が葛城山に登った時に、お供の役人に紅い紐(あかいひも)が付いている青染めの衣服を与え、全員がその衣服を着ていました。

その時、向かいの山を見ると、山の尾根づたい登ってくる一行がいました。

よくその行列を見ると、天皇の行列と装束や人々もそっくり似ていました。

天皇は「この大和の国には私以外に王はいないのに、あの行れるは誰か?」と役人に尋ねに行かせました。

すると答える様子も、その問いかけの内容も天皇の言葉と同じものでした。

天皇は大変お怒りになり、矢を構え、多くの役人も天皇に倣(なら)いました。

すると相手もみんな矢を構えました。

天皇は「それならば名を名乗れ!お互い名乗ってから矢を放とう!」と相手に叫ぶと「私が先に問われたので、先に名乗ることにしよう!私は吉凶(きっきょう)を一言(ひとこと)で言い当てる神、葛城(かずらき)の一言主大神(ひとことぬしおおかみ)である」とお答えになりました。

葛城山のツツジ(写真ACより)

それを聞いた天皇はすっかり恐縮し、「おそれ多い事です。私は人間ですからこの世に大神(おおかみ)が現れるとは存じませんでした」

そして天皇は自分が身につけてい大御刀(おおみたち)や弓矢、多くの役人が着ている衣服を脱がせ、拝んで献(たてまつ)りました。

すると一言主大神(ひとことぬしおおかみ)は、柏手(かしわで)を打って喜びその捧(ささ)げ物をお受け取りになりました。

そして天皇がお帰りになろうとした時、一言主大神は山のふもとまで送ってくださいました。

一言主大神は、このようにしてこの時お姿をお見せになりました。

三重の采女(うねめ)

欅(写真ACより)

天皇が欅(けやき)の木の下で、宴(うたげ)を開いた時、伊勢国の三重(みえ)の采女(うねめ)盃の中に欅の落ち葉が入ったのを気付かず天皇に差し上げてしまいました。

【采女(うねめ)】とは、地方豪族出身の朝廷に仕える娘をいう。

天皇が盃に入っている葉に気付くと、采女を打ち伏せ、太刀を首に当てて斬ろうとしました。

すると采女が「私を殺さないでください。申し上げる事があります」と申し上げ、歌を詠みました。

その歌は盃に浮かぶ葉をオノゴロ島を見立て、水音も「こおろ、こおろ」と例えました。

オノゴロ島はイザナキとイザナミの国生みの章で出てくるお話です。

お忘れの方はリンクを貼っておきますね。

【天地の始まり〜黄泉の国】#1

この歌を献(たてまつ)ると、天皇はお赦(ゆる)しになりました。

そして、天皇は采女をおほめになって、多くの褒美(ほうび)を与えました。

ま と め

いかがでしょうか?
今回は雄略天皇即位後のお話でした。

雄略天皇は中国の【宋書(そうしょ)】などに記載されている倭の五王【讃・珍・済・興・武】の5名のうち【武(ぶ)】の可能性が高いと言われています。

雄略天皇は、埼玉の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本の江田船山(えたふなやま)古墳から【ワカタケル】の名が刻まれた鉄拳が発見されているので、関東から九州まで広く支配していたと言われています。

武力でねじ伏せた暴君振りでも有名な天皇であり、【大悪天皇(はなはだあしきてんのう)】とも呼ばれていました。

また、古事記には記載されていませんが、雄略天皇の夢枕にアマテラスが現れ、「一人では食事が安らかにできないので、丹波国の豊受大神(とようけのおおかみ)を呼び寄せなさい」と言われ、今の外宮に遷宮(せんぐう)させた話があります。

雄略天皇の崩御後は、雄略天皇の御子である第22代清寧天皇(せいねいてんのう)が即位されました。
古事記ではその後、第33代推古天皇(すいこてんのう)まで記載されています。

今回は、初めて古事記をお読みになる方向けに書いていますので、今回で最終回とさせて頂きます。

また追加記載する事がありましたら、また私のブログ記事をぜひ訪れてくださると幸いです。

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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