彩雲(さいうん)です。
私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
前回は、仲哀天皇と神功皇后のお話でした。
神功皇后のエピソードがスゴすぎて、仲哀天皇の影が薄くなってしまいましたね。
まだお読みでない方は、リンクを貼っておきますね。
今回は、神功皇后の御子と腹違いの兄カゴサカとオシクマとの後継者争いのお話です。
それでは始めましょう!!
腹違いの御子の兄 カゴサカとオシクマの反逆
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神功皇后は大和の国に帰る時、御子の命が狙われるのを恐れて、喪船(もふね)=棺を乗せる船を一隻用意させて、その中に御子(後の応神天皇)を乗せ、「御子は亡くなった」と言い広めて大和へ向かいました。
一方、御子の腹違いの兄カゴサカとオシクマは、これを聞いて待ち受け、御子を殺害する計画を企てました。
その企ての吉凶を占おうと斗賀野(とがの)に進み出て誓約狩(うけいがり)をしました。
【斗賀野(とがの)】は大阪市とする説と神戸とする説がある
【誓約狩(うけいがり)】とは、占いの一種で神に誓って狩をし、神意を伺い吉凶を判断すること
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兄カゴサカがクヌギの木に登って遠くを眺めていると、大きなイノシシが現れ、クヌギの木を掘って倒しカゴサカを食い殺してしまいました。
しかし、誓約狩は凶と出たにもかかわらず、弟オシクマは恐れず、軍勢を集めました。
オシクマ軍は、最初にやってきた喪船は攻めずやりすごし、後から来る船を攻めようとしました。
しかしその船は空船で、喪船から軍勢が下りてきて戦(いくさ)が始まりました。
またこの時、オシクマ軍はイサヒノスクネを将軍に、神功皇后軍はタケフルクマを将軍にして戦いました。
一進一退の戦いが続いた後に、神功皇后軍の将軍タケフルクマは計略を練りました。
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「神功皇后はすでに亡くなったので、戦いはやめよう!」と伝えさせ、弓の弦(つる)を切り、相手に降伏するふりをしました。
オシクマ軍の将軍イサヒノスクネはそれを信じて弓を外して兵を収めました。
するとその時、タケフルクマは頭上で束ねた髪をほどき、隠してあった弦(つる)を取り出し、すぐに弓に張り追い討ちをしました。
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追い詰められたオシクマ軍は淡海(あわうみ)=琵琶湖の岸辺でことごとく斬り殺されました。
追い詰められたオシクマとイサヒノスクネは、船に乗り、琵琶湖に飛び込んで命を絶ちました。
戦いに勝った神功皇后軍の大臣タケウチノスクネは、神功皇后の御子(後の応神天皇)を連れて、戦(いくさ)の穢(けがれ)をはらうため禊(みそぎ)をしようと琵琶湖と若狭国(わかさのくに)=福井県を巡りました。
神功皇后の御子 神と名の交換をする
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そして高志前国(こしのみちのくに)の角鹿(つぬが)=福井県敦賀市(つるがし)に仮宮を建てて滞在しました。
するとある晩、御子の夢に角鹿(つぬが)の地に住むイザサワケが現れて、「私の名前を御子のお名前とかえたい」と仰せになりました。
そこで御子が「恐れ多い事です。お言葉のとおりにいたしましょう!」と申し上げると、その神は「夜明けになったら浜に出なさい。名をかえた祝いの贈り物を差し上げましょう』と告げました。
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翌朝、御子が浜辺に出かけていくと、鼻の傷ついたイルカが海岸いっぱいに打ち上げられていました。
それを見た御子は「私に御食(みけ)の魚を下さった」と神に申し上げました。
【御食(みけ)】とは神や天皇が食べる食物のことを言います。
こうして御子は神からホムダワケという名を賜り、御子は神にミケツ大神と名付けました。
現在は気比大神(けひのおおかみ)として気比神宮(福井県敦賀市)の御祭神です。
また、イルカの鼻の血が臭かったので、この浦を血浦(ちうら)と名付け現在では敦賀(つるが)と呼ばれています。
御子ホムダワケ 大和に帰り酒楽(さけくら)の歌
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禊ぎを終えたホムダワケは、大和にお帰りになりました。
すると母親の神功皇后は、待酒(まちざけ)を用意していました。
そして、神功皇后は祝いの御歌(みうた)を詠みました。
「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻ほし 献り来し御酒ぞ あさず食せ ささ」
(このみきは わがみきならず くしのかみ とこよにいます いはたたす すくなみかみの かむほき ほきくるほし とよほき ほきもとほし まつりこしみきぞ あさずをせ ささ)
【このお酒は、わたしが造った酒ではありません。酒の神である常世の国においでになり、この国では石に宿るスクナビコの神が祝福し踊り回って酒を造りくださったお酒です。飲み干しなさい!さあ!】
ここに出てくるスクナビコナとはオオクニヌシと国造りを手伝ったカミムスビの御子で国づくりの途中で常世の国に旅立ってしまいました。
お忘れの方はリンクを貼っておきますね。
神功皇后がお詠みになると、大御酒(おおみき)をささげました。
するとタケウチノスクネが御子に代わって歌いました。
「この御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに うた楽し ささ」
(このみきを かみけむひとは そのつづみ うすにたてて うたひつつ かみけれかも まひつつ かみけれかも このみきの みきの あやに うただのし ささ)
【このお酒を醸造した人は、つづみを臼のように立てて、歌って醸造したからか、踊って醸造したからか、このお酒は、お酒はなんとも愉快だ!さあ!】
この待酒(まちざけ)は、無事旅から帰ってくることを祈るための儀礼とされています。
この時詠まれた歌は酒楽(さかくら)の歌と呼ばれています。
こうしてホムダワケは、角鹿(つぬが)の神と名を交換し、神が醸造したお酒で宴(うたげ)を行ったことにより即位が承認されました。
第15代応神(おうじん)天皇です。
母の神功皇后は、応神天皇が即位をすると100歳でこの世を去りました。
ま と め
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いかがでしょうか?
今回は神功皇后の御子を神のお告げ通り天皇にするため、神功皇后は御子の腹違いの兄達と戦い、勝利をしました。
この時代は、一夫多妻で子供が多く、後継ぎの順番が決まっていないので、後継者争いが絶えませんでした。
次もホムダワケ(後の応神天皇)のお話からになります。
お楽しみに•••
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