【古事記】をわかりやすく楽しく読もう!【仲哀天皇と神功皇后】#16

彩雲(さいうん)です。
私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。

前回はヤマトタケルの東征(とうせい)のお話でした。
まだお読みでない方はリンクを貼っておきますね。

【ヤマトタケル後編】 #15

今回は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)のお話からです。

それでは始めましょう!!

第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)

関門海峡
(写真ACより)

第13代ワカタラシヒコこと成務(せいむ)天皇は、近淡海(ちかつおうみ)の志賀の高穴穂宮(たかあなほみや)=滋賀県大津市穴太(あのう)において天下を治めました。
成務天皇には子がいなかったので、初めて直系が途絶えてしまいました。

そこで次の天皇には、ヤマトタケルの御子タラシナカツヒコ=後の仲哀天皇が、穴門(あなと)の豊浦宮(とようらみや)=山口県下関市長府豊浦町(ちょうふとよらちょう)で天下を治めました。

ある時、大后(おおきさき)のオキナガタラシヒメは、【神がかり】ました。

【神がかり】とは、自らの体に神霊が乗り移り神の言葉を話すことを言います。

写真ACより

仲哀天皇が筑紫の訶志比宮(かしひのみや)で熊曽国(くまそのくに)=南九州を討とうとした時、琴を弾いて建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおきみ)は清めた祭場で神の言葉を求めました。

すると大后は神がかり、神のお言葉をお話になりました。

「西の方に国がある。そこには金銀をはじめとして、目のかがやくような種々の珍しい宝が多くある。私が、今からその国を起伏(きふく)させよう!」

この国は、日本書紀では朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)と書いてあります。

しかし天皇は「高いところに登って西の方を見ても国は見えず、大海があるだけだ」と仰せになり、偽りをなす神だと思い、琴を押しやり弾くのをやめて黙って座ってしまいました。

すると神託(しんたく)を授けた神は激怒し「そもそもこの天下は、おまえの治める国ではない!おまえは死んでしまえ!」とお告げになりました。

そこで建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおきみ)は「おそれながら、我が天皇よ。やはりその大御琴(おおみこと)をお弾きになってくださいませ」と申し上げ、そっとその琴を引き寄せました。

天皇はしぶしぶと琴をお弾きになりましたが、琴の音はまもなく聞こえなくなったので、火をともして見ると既に天皇は崩御(ほうぎょ)されていました。

【崩御(ほうぎょ)】とは天皇が亡くなることをいいます。

周りの者たちは天皇が呪い殺されたことに驚き恐れ、天皇の亡骸を殯宮(もがりみや)に安置し、供え物に使う品々を国中から取り寄せました。

【殯宮(もがりみや)】とは葬るまでの間、一時的に安置する所を言います。

その後、神道においての【天つ罪、国つ罪】を調べて国の大祓(おおはらえ)をして、また建内宿禰大臣(たけうちのすくねのおおきみ)が清めた祭場で神託を求めました。

そうする神功皇后は神がかり、前のお告げと同じ、海の向こうの西の国を攻めろとの事でした。

そして「およそこの国は、神功皇后のお腹にいる御子が治める国である」とのお告げもありました。

建内宿禰大臣は「おそれ多い、わが大神、神功皇后の腹にいる御子の性別はどちらでしょうか?」と申し上げると「男子である」と答えました。

続けて「今お告げを教えてくださる大神はどなた様でしょうか?」と尋ねました。

「これは天照大御神の御心(みこころ)である。また、我は底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、上筒男(うわつつのお)の三柱の大神である」

こうして三柱の大神の御名が明らかになったのです。

さらに続けて仰せになりました。
「今、本当にその国(朝鮮半島)を求めようと思うならば、天つ神・国つ神(天地の神々)、また山の神と河・海の神それぞれに幣帛(みてぐら)を奉り、わが御魂(みたま)を船の上に乗せて、真木(まき)の灰をひょうたんに納め、また箸(はし)と柏の葉で作った皿を多く作り、それらを大海にすべて散らして浮かべてその上を渡るとよい」と告げました。

住吉大社(写真ACより)

この三柱の大神は、以前イザナキが禊ぎをした時に生まれた神で、住吉大社(大阪市住吉区)の御祭神です。

お忘れの方はリンクを貼っておきますね。

【イザナキの禊〜誓約】#2

神功皇后の新羅遠征

神功皇后は、三神のお告げ通りに、軍を整え船で海原へ出ると、大きい魚や小さな魚が船を背負って持ち上げ運びました。
そして、強い追い風が吹き、船はどんどん進んで行きました。

船が新羅国(しらぎのくに)へと近づくと、船が立てる波が津波となってあがり、国の半分まで達しました。

イラストACより

新羅に上陸した船を見た新羅の国王は、恐ろしくなり、「今後は大和王に従い、馬飼いとして毎年船を並べて、船を乾かすことなく、棹(さお)や舵(かじ)を乾かすことなく、天地が続く限りお仕え致します」と誓いました。

こうして、新羅国を馬飼い百済国(くだらのくに)を渡航の食料を蓄えおく屯倉(みやけ)と定めました。

神功皇后は、御杖(みつえ)を新羅の国王の家の門につき立てて、住吉三神(すみよしさんじん)の荒御魂(あらみたま)をまつって、国を守る神として鎮座(ちんざ)しました。

【荒御魂(あらみたま)】とは神の荒ぶる魂であり、勇ましく非常に強い神霊のことです。

神様の御魂(みたま)は4つに分かれていると言われます。
荒御魂はその1つです。
詳しくは【大国主国造りと恋多き神#6】のまとめに書いてありますので、リンクを貼っておきます。

【大国主命の国造りと恋多き神】#6

神功皇后は、新羅征伐が終わらないうちに子を生みそうになりました。
そこで、石を腰に巻きつけお腹を冷やし、すぐに生まれないように耐えました。

そして新羅から筑紫国(つくしのくに)=九州に渡り、御子ホムダワケ(後の応神天皇)を出産しました。

いらすとやより

御子が生まれた土地を宇美(うみ)=福岡県宇美町といいます。

腰につけた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)=福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)にまつられています。

イラストACより

また、現在の佐賀県唐津市の玉島川のほとりに着き、その川辺でお食事をしていました。ちょうど4月上旬でしたので、御子の成長を祈る占いとして、川の岩に座って衣服の糸を抜き取り、米粒を餌にしてアユを釣りました。

その川の名を小河(おがわ)といい、また岩の名を勝門比売(かつとひめ)といいます。

ま と め

いかがでしょうか?

今回は仲哀天皇と神功皇后の新羅遠征、ホンダワケ(後の応神天皇)の誕生までのお話でした。

仲哀天皇は、神のお告げを無視したので神の怒りに触れて52歳で崩御されました。

その後の神功皇后の行動もびっくりさせられました。

次のお話は、ホムダワケの腹違いの兄カゴサカとオシクマの後継者争いのお話からです。
お楽しみに!!

【神功皇后大和へ帰還と後継者争い】#17

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