【古事記】をわかりやすく楽しく読もう!【ヤマトタケル後編】 #15

ヤマトタケル像 (写真ACより)

彩雲(さいうん)です。
私のブログを訪れてくださり、ありがとうございます。

前回は第12代景行天皇とその御子ヤマトタケル前編のお話でした。
まだお読みでない方はリンクを貼っておきますので、ぜひ先にお読みになってくださいね。

【第12代景行天皇とヤマトタケル前編】#14

今回はヤマトタケル後編のお話です。
それでは始めましょう!!

ヤマトタケルの東征

ヤマトタケルが大和に戻り、父の景行天皇に西征を報告すると、父からのねぎらいの言葉は無く、反応も冷たいものでした。
しかも今度はすぐに東征へ出発するよう命じられました。

ヤマトタケルは東に出発する前に、伊勢神宮にお参りし、その足で叔母のヤマトヒメに会いに行きました。

ヤマトタケルとヤマトヒメ
(イラストACより)

ヤマトタケルはヤマトヒメに会うと突然涙を流し「天皇は私が死んだら良いとお思いなのでしょうか?西征して帰ってきたばかりの私をなぜすぐに軍政も与えず東征を命じるのでしょう!やはり私など死んだら良いと思っているのでしょう!」と話しました。

するとヤマトヒメは【草薙の剣】と【袋】を渡しました。
【袋】は「困ったことが起きたらこの袋を開けなさい」と伝えました。

こうしてヤマトタケルは東征に出発しました。

尾張国(おわりのくに)=愛知県に着いたヤマトタケルは、国造(くにのみやつこ)の家に行き、泊めてもらいました。

【国造】とは今の県知事のような役職の方をいいます。

そこにはミヤズヒメという娘がおり、ヤマトタケルは一目ぼれをし、すぐに結婚しようと思いましたが、東征に行く途中ですので、帰りに必ず迎えに来ると婚約をして東に向かいました。

駿河(するが)=静岡県での騙し討ち

駿河の国に着くと国造(くにのみやつこ)がお願いをして来ました。

「この野原の中に大きな沼があり、そこに凶暴な神が住んでいるので退治してください!」と言うので、ヤマトタケルは野原に入って行きました。

しかし、国造は野原に火を着け、たちまち周りが火に囲まれてしまいました。

ヤマトタケルはヤマトヒメの言葉を思い出し、袋を開けると火打ち石が入っていました。

写真ACより

そこで剣で周りの草を刈り、火打ち石で向かい火をつけて焼き退けました。

ヤマトタケルは脱出するとすぐに国造らを斬殺(ざんさつ)し、家に火をつけて焼きました。

このような事があったので、今でもこの地を焼津(やいづ)=静岡県焼津市と呼ばれています

オトタチバナヒメ 海峡の神の生贄(いけにえ)になる

ヤマトタケルは駿河国からさらに東へ進み、箱根を超えて海岸に着き房州(ぼうしゅう)=千葉県に渡ろうとします。

ヤマトタケルは「こんな小さい海、簡単に渡れるであろう!」と走水海(はしりみずのうみ)を渡ろうとした時、海峡の神が波を起こし、船をぐるぐると回して渡ることができませんでした。

【走水海】とは現在の東京湾入り口の浦賀水道になります。そこでヤマトタケルにずっと付き添って来ていたオトタチバナヒメが「私が御子に代わって海の中に入りましょう!御子は遣わされた任務を全うし、天皇に報告なさらねばなりません」と言って、海に入る時、菅畳八重(すがたたみやえ)、皮畳八重(かわたたみやえ)、絹畳八重(きぬたたみやえ)を波の上に敷いて、その上に飛び乗り身を投げました。

この時、オトタチバナヒメはヤマトタケルに別れの歌を詠みました。

「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中にたちて 問ひし君はも」
(さねさし さがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも)
【相模の野原に燃える火の、その火の中に立って呼びかけてくださったあなたよ】

すると、荒波は自然と収まり、上総(かずさ)=現在の千葉県木更津市に無事渡ることができました。

【菅畳八重(すがたたみやえ)】とは何重にも重ねた菅(すげ)で編んだ敷物
【皮畳八重(かわたたみやえ)】とは何重にも重ねた毛皮の敷物
【絹畳八重(きぬたたみやえ)】とは何重にも重ねた絹の敷物

それから7日後、オトタチバナヒメが身につけていた櫛(くし)が海辺で見つかりました。

イラストACより

ヤマトタケルはその櫛を取り、御陵(みはか)=お墓を作って納め置きました。

【走水(はしりみず)神社】
神奈川県横須賀市走水
ヤマトタケルとオトタチバナヒメが房州へ出発した場所
スピリチュアルで有名な江原啓之さんがおすすめするパワースポット

【橘樹(たちばな)神社】
千葉県茂原市
社殿後方に丘があり、ヤマトタケルが自ら築いたとされるオトタチバナヒメの御陵がある。

ヤマトタケルはさらに進んで行き、荒ぶる蝦夷(えみし)=野蛮な人たちをことごとく説得し、また、山河の荒ぶる神たちを平定して、大和に帰る途中、足柄(あしがら)=神奈川県足柄山の坂の下で弁当を食べていると、その坂の神が白い鹿に化けて現れました。

そこで食べ残しのネギの端切れを投げつけると白い鹿の目に当たり死んでしまいました。

そしてその坂の上に登り立ち、海が見えるとふとオトタチバナヒメの事を思い出し、三度ため息をつきました。
思わず「吾妻(あずま)はや」=我が妻よと言葉を発しました。
このことから、この地を吾妻(あずま)=東と呼ぶようになりました。

ミヤズヒメとの結婚

ヤマトタケル像
(写真ACより)

ヤマトタケルはとうとう東の蝦夷(えみし)たちを皆説得し、山河の荒ぶる神たちを平定し終えました。
やっと大和に帰る途中、足柄から信濃国(しなのくに)=長野県を超え、信濃の坂の神を説得して、尾張国(おわりのくに)=愛知県に戻って来ました。

そして前に婚約をしていたミヤズヒメの所にすぐに訪れ、ミヤズヒメは大変喜びました。

ヤマトタケルに大御食(おおみけ)=天皇に出される御膳を献上し、大御酒盞(おおみさかずき)=天皇に差し上げる酒を捧げて献上しました。

こうしてやっと二人はめでたく結ばれました。

伊吹山(いぶきやま)の神 白イノシシ

伊吹山山道(写真ACより)
伊吹山山道(写真ACより)

ヤマトタケルはミヤズヒメと結婚後、伊吹山(いぶきやま)=滋賀県と岐阜県の境にある山の神を討ちに出かけました。

いつもならヤマトヒメにいただいた草薙剣を欠かさず持参していたのですが、この時はミヤズヒメの元に置いて、「この山の神は、素手で真正面から殺そう!」と言って出かけてしまいました。

そして伊吹山を登って行くと、山の麓(ふもと)で白いイノシシに遭遇しました。

その白いイノシシのは牛のような大きさでした。

そこで、ヤマトタケルは言挙(ことあげ)して
「この白いイノシシに化けているのは、山の神の使いであろう!今殺さなくても帰りに殺そうではないか!」と言い山に登って行きました。

【言挙(ことあげ)】とは、自分の意思を声に出して言い立てることで、当時は禁句とされていたようです。

すると、突然激しい雨と雹(ひょう)が降り、ヤマトタケルは打たれて意識を失ってしまいました。

先ほどの白いイノシシは山の神の使いではなく、山の神自身でした。
ヤマトタケルが言挙げをしたので、その怒りを買い気を失わせたのでした。

その後、ヤマトタケルは意識がもうろうとしながらも、なんとか山を下り、玉倉部の清水(たまくらべのしみず)に着き、休んでいると徐々に意識が回復して来ました。
玉倉部の清水は所在不詳です。

意識が回復してきたので出発し、当芸野(たぎの)=現在の岐阜県養老町辺りに着いたとき、次のように言いました。

「私の心は、常に空を飛んでかけていきたいと願っていた。しかし今、私の足は歩くことができず、たぎたぎしく(腫れてでこぼこにむくんだよう)になってしまった」

そこで、その地を当芸(たぎ)と名付けました。

その地から少しだけ進みましたが、とても疲れて、どうにか杖をついてそろそろと歩いて行きました。

そこで、その地を杖衝坂(つえつきざか)と名付けました。現在の三重県四日市です。

ヤマトタケルの最期

イラストACより

ヤマトタケルは、ひどく衰弱していましたが、なんとか杖をついて尾津前(おつのさき)=三重県桑名市多度町付近一本松の所にたどりつきました。

かつてここで食事をした時に置き忘れた刀がまだそのままそこに置いてありました。

さらに進んで行くと三重の村=三重県八日市市釆女町にたどり着いたとき、「私の足は三重のまがり餅のように腫れてねじ曲がり、とても疲れた」と言いました。

そこでその地を三重と名付けました

そこからさらに進むと能煩野(のぼの)=三重県鈴鹿市と亀山市にまたがる地帯までやって来ると故郷を懐かしんで歌を詠みました。

「やまとは 国のまほろば たたなづく あおかき 山ごもれる やまとしうるはし」
(大和は最も素晴らしい国である 連なる青垣の山々に囲まれている 大和は美しい)

その後2首を詠むとヤマトタケルの体調はさらに悪化し最後に次の歌を詠みました。

草薙の剣
(イラストACより)

「嬢子(おとめ)の 床のべに 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや」
(ミヤズヒメの床のかたわらに置いてきた草薙剣 ああ あの太刀はどうしただろうか)

そう歌われるとついに息たえてしまいました。

ヤマトタケルがお亡くなり、お供の者がすぐに早馬を走らせ大和に報告しました。

報告を受け、ヤマトタケルの妻たちと子供たちは、亡くなった場所である能煩野(のぼの)迄やって来てお墓をつくりました。
そして、そのお墓の周囲の田んぼを這い回って、泣きながら歌いました。

【なづきの田の 稲幹に 稲幹に 匍い廻ろふ 野老蔓】
(なづきのたの いながらに いながらに はひもとほろふ ところづら)
「お墓の周りの田んぼを稲の茎に絡みつく山芋のツルのように悲しんでいる私たち」

するとヤマトタケルの魂は、亡骸(なきがら)から抜け出して大きな白鳥になり、天へ舞い上がり海へと飛んでいきました。

それを見ていた妻や子供たちは、竹の切り株で足を切りながらも、その痛さを忘れて追いかけ歌を詠みました。

【浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな】
(あさじのはら こしなづむ そらはゆかず あしよゆくな)
「丈の低い篠(しの)の原を進もうとしても腰に絡みついて進めない。空を飛ぶ事もできず、足で歩いて行くしかできないもどかしさ」

また海に入り、進みながら歌った歌は

【海処行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海処は いさよふ】
(うみがゆけば こしなづむ おほかわらの うゑぐさ うみがは いさよふ)
「海に行こうとしても腰に海水が絡みついて進めない。川にはえてる水草のように、海では進むことができない」

また、ヤマトタケルの魂である大きな白鳥が磯に止まった時に歌った歌は

【浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ】
(はまつちどり はまよはゆかず いそづたふ)
「浜の白鳥は浜辺に行かないで、歩きにくい磯伝いに飛んでいく」

この4首の歌は、その後天皇の葬儀の際に歌われるようになりました。

このようにヤマトタケルの魂である大きな白鳥は懐かしい大和の地を超えると河内国の志幾(しぎ)=大阪府柏原市周辺に留まりました。
そのため、この地にお墓を作り【白鳥御陵(しらとりのみはか)】と名付けられました。

しかし、ヤマトタケルの魂である大きな白鳥はその地に留まらず、また天に向かって飛び立って行きました。

ま と め

ヤマトタケル像
(三峯神社より撮影)

いかがでしょうか?

今回はヤマトタケルの東征のお話でした。
各地を平定出来たので、おごりでしょうか?
伊吹山の神は素手で討てると草薙の剣を置いていってしまいます。

また当時は禁句とされていた事挙げまでもしてしましましたね。

さて、次回は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)のお話です。
お楽しみに!!

【仲哀天皇と神功皇后】#16

 

 

 

 

 

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